実は最近会社員を辞めて、フリーター的なポジショニングをとっています。
フリーターといっても、週5日くらいで職場に行っているんですけどね。
会社員辞めたあとの1ヶ月ちょっとは自宅警備に従事していました。
自宅を、警備していたんですね。
でもまあ、そんな期間も終わり、働くようになりましたと。
早速わりと忙しくしていますが、これはこれでけっこう充実していたりします。
いろいろありますが、間違いなく「楽しい日」を過ごしていると言えます。
そういう中で、井上法子さんの短歌です。
絶妙な物足りなさ
眼裏に散らす暗号 うつくしい日にこそふかく眠るべきだよ
(井上法子「おかえりなさい。花野へ」『永遠でないほうの火』)
「眼裏(まなうら)に散らす暗号」ということは、きっと目を閉じている状態なのでしょう。
その状態で、暗号を散らす。暗号ってなんなんだというところですが、なんかテレパシーみたいなものなのでしょうか。
テレパシーとも違うかな。なにか、こう、胸の内に秘めていること、とでも言いましょうか。
人には言っていないことがあって、それを目を閉じている間だけ解放する。もちろん人には言わない。自分だけにはしか分からない方法で解放する、といった感じに読めます。
そして、「うつくしい日にこそふかく眠るべき」という後半部分も含めて考えてみると、なんとなく繋がってくるような気がします。
「眼裏に散らす暗号」は、「目を閉じている間は、胸の内に秘めていることを解放する」と考えてみました。
これと「うつくしい日」ってのを合わせてみると、この歌における「うつくしさ」って「絶妙な物足りなさ」といいますか、完結しない物語、みたいなものを言っているんじゃないかなあと思うわけです。
うつくしい日ってなんだ
ところで、さっき荒井は「楽しい日」を過ごしていると言いましたが、荒井的な「うつくしい日」ってなんなんでしょうね。
平日は職場に行き、仕事をして帰って寝る。これはこれで楽しいです。
じゃあ「うつくしい日」か、と聞かれると、うーん、どうでしょう。
何もせずぼーっとすることなのか、友達と飲んで騒ぐことなのか、大切な人とゆったり過ごすことなのか。
うつくしさなんて主観の極み、みたいなもので、定義しようもないのでもう完全に荒井のフィールドに持ち込んでの話になるわけですが、荒井が思うに、うつくしさは「絶対的な距離」、だと思うのです。
たしかにそこにあって見えるのに、触れることはできない。
じゃあそれってどんな日なんだよ、というわけですが、それは荒井的に「強い後悔が残る日」。意外と、そういう日を「うつくしい」と思ったりするのかも知れません。
例えば、スポーツの試合なんかで、普段じゃありえないミスをしてとんでもなく恥ずかしい思いをしたり、好きな人に最後まで思いを伝えることができずに会わなくなったり。
仮にそのあとの人生で、試合で活躍するようになったり、恋人ができて「幸せだなーはっはっはっ」とかなったりとしても、強い後悔が残る日は、おそらく一生つきまとう。ふとした瞬間に無意識から這い出てきたりしますよね。
一生つきまとうし、もうその歴史を塗り替えることはできない。
そういう日を、絶対的な距離を感じて「うつくしい」と思ったりするんです。
だから荒井的な「うつくしい日」って過去にしか存在しないんです。
「今日はうつくしい日だったなー」っていうのはありえなくて、時間が経ってから「ああ、あれはうつくしい日だったと言えるのかも知れないなあ」と振り返った時に「うつくしい日」になる、という感じです。
楽しい思い出っていうのも大事にしたいですけど、後悔が残る日をより大事にしたいと思うのです。
後悔を感じながら、ふかく、眠ります。
●文/歌人・荒井貴彦
大学一年生の時に短歌を詠み始めました。主な源泉は寂しさです。 最近はもはや、短歌にすがりついている感すらありますねえ。 「荒井の随筆」というブログで自作短歌を公開中です