2018.02.27

【短歌しない?】『荒井の妄想一首評』:寄せ集めの現実

 

舞う雪はアスピリンのごと落丁本抱えしままにかわすくちづけ

(穂村弘「シンジケート」『シンジケート』)

 

シュルレアリスムってありますよね。

聞いたことがある人も多いのではないかと思います。

 

この言葉は「超現実主義」とかって訳されたりしますけど、この「超」は「スーパーナチュラル」的な超常現象の「超」ではなく、むしろ「超やばいんですけど!!!」みたいな文脈で登場するときの「超」なんです。

 

今回は巖谷國士さんの『〈遊ぶ〉シュルレアリスム』という本を参考にしながら書いていきたいと思いますけども、それによればここで言う「超現実」は「与えられた現実ではなく、確かな手ごたえのある「真の現実(超現実)」」と呼ばれています。

 

世間一般で言われるような概念的な「現実」ではなく、自分の眼や脳裏に映る世界、自分が触れることのできる世界、それこそが「現実」なのだというわけです。

 

そしてシュルレアリスムの作品で特徴的な概念・創作の方法として「ブリコラージュ」という言葉があります。

これは「寄せ集めて自分で作る」というような意味で、その場にあるもので試行錯誤しながら何かを作り上げることを指します。

理論や設計書に基づいて何かを作る「エンジニアリング」とは対照的な言葉です。

 

さて、なぜこれらの言葉を説明したかと言うと、荒井的に穂村弘の短歌を読んでいく際に、このシュルレアリスムを関連させるとちょっと分かりやすくなるんじゃないかと思ったからです。

 

と、ここでやっと本題。

荒井は今回、穂村弘の『シンジケート』という歌集から短歌を選んだわけですが、どれもこれも「意味分かんねーよ!」みたいな歌ばかりで頭を抱えていたわけですが、一旦シュルレアリスムの本を読み返してみると、まあなんか書けそうな気がしなくもないかな〜〜〜〜〜〜と思えてきました。

 

 

舞う雪はアスピリンのごと落丁本抱えしままにかわすくちづけ

 

この歌は一見、なんで???みたいな感じになりますが、これはブリコラージュなんだと考えてみるとまだマシになります。

眼に見える世界、私の周りに広がる世界、それこそが真の現実。

なんで?と考える前に、まずはこれが、どうしようもなく厳然としてある現実なんだと受け止めてみる。

 

歌に沿った意識の流れとしては、

風景(雪)→アスピリン(現実にはないかも?でも脳裏には確かに存在する)→手元の落丁本→くちびる

みたいな感じかなあと思うんですが、この短歌は「くちづけ」をきっかけに、現実世界を寄せ集めた、という捉え方ができるような気がします。

 

この歌の中で最も強く記憶に残るものは、間違いなく「くちづけ」だと思います。

このくちづけの瞬間に寄せ集めた現実が歌になった。

そしてこれは、ムードを盛り上げるようなくちづけではなく、むしろ気持ちを鎮め冷静にさせるようなくちづけだったのではないかと思います。

 

だから、身体感覚と同時に雪やアスピリン(鎮痛剤、解熱剤、抗炎症剤と使用される)を捕まえたのではないでしょうか、と思うわけです。

 

 

また、『〈遊ぶ〉シュルレアリスム』の中ではこんな説明もあります。

「シュルレアリスムの人体表現はいわゆる人間中心主義ではなく、自然と連続する「人間みたいなもの」の復権をめざしていたといってもよいほどです」

 

「自然との連続」という視点で読んでいっても、なんとなく分かるような気がします。

『シンジケート』より、ほかの短歌もいくつか紹介します。

 

 

朝の陽にまみれてみえなくなりそうなおまえを足で起こす日曜

 

手はつながずにみるはるのゆきのなか今日で最後のアシカの芸を

 

砂の城なみうちぎわにたてられてさらわれてゆく門番ふたり

 

 

「朝の陽」から「足」、

「手」から「アシカ」、

「砂の城」から「門番」へ。

間にひらがなの部分があることで、さも境界が曖昧になり連続しているような印象を持ちます。

 

「人間」として集められるだけの現実を集めてみると、意外や意外、自然との連続性を意識せざるを得ないという結果になりました。

 

●文/歌人・荒井貴彦
大学一年生の時に短歌を詠み始めました。主な源泉は寂しさです。 最近はもはや、短歌にすがりついている感すらありますねえ。 「荒井の随筆」というブログで自作短歌を公開中です。