2018.03.23

新宿JAM最後の男、石塚明彦氏インタビュー『インディーズシーンと新宿JAMの最期』前編

「2017年12月31日、新宿JAM閉店」この言葉に全インディーズバンドマンはどれだけの衝撃を受けただろうか。「新宿JAM」、もしもあなたがバンドを、都内で音楽活動をしたことがあるバンドマンなら、行ったことはないかもしれないけれど、ほぼ必ず知っているライブハウスだ。新宿駅から向かうなら、都内屈指のラビリンス新宿駅東口を出て、ゴールデン街を突き抜け、ラブホ街をさらにこえた明治通り沿い、カオスを超えたカオスをさらに超えると、そこに臭くて汚くてタバコ臭くて男臭いライブハウスがある、それが「新宿JAM」だ。

今回は新宿JAM最後の将軍、店長である石塚明彦氏にインタビューを敢行した。話を聞いたのは新宿JAMが失くなって約2週間後だ。最後のJAMを見届けた男、石塚明彦氏の言葉を一字一句残さずここに残す。俺たちが愛してやまない新宿JAMへの敬意を込めて。前後編に分けてお送りします。このインタビュー記事を、新宿JAMに関わったすべてのバンド、そして日本全国のインディーズバンドマンに捧げます。

新宿JAMが失くなって

――よろしくお願いします。率直に聞きます、今のお気持ちはいかがですか?

JAM最後の日は大晦日から1月1日の夕方18時までライブをしていて、最後に閉会式をしました。1月10日に完全に明け渡しをして15日から解体作業がはじまったみたいですよ。初日からガンガン、初日は下見くらいだと思っていたら、早速ガンガンぶっ壊してましたわ笑

――そりゃ喪失感はありますよね?

僕がJAMにいたのは12年、正確に言うと11年と9か月、その間は趣味が新宿JAMか酒、自分の家にいるより新宿JAMにいる時間の方が長かったです。そりゃあ、ぽっかり心に穴は空きました。反面にブッキングなどに追われていたので解放感もあります。言うならさみしさが8割、解放感が2割くらいかな。

――そりゃさみしいですよね、出演してた僕たちですらさみしいんですから。新宿JAMって本当に独特でしたよね、なんか行きつけの呑み屋、みたいな感じがありました。

そうだね、酒は安く飲めるように工夫をしていました。俺のヒット作はスリードリンクですわな。会社からお前が飲みたいからやろ、と言われて、それもあるかな、なんて笑

――他のライブハウスにはそんなスタイルないですよね。

そうだね、みんなのJAMのイメージってのは違っていて、「ここは歌モノの箱です」、とかそういうカテゴリーみたいなものがなかったので「とにかくなんでもいい」、言い方は悪いかもしれないけれど、いろいろなジャンル、例えば音楽だけでなくても受け入れていたので、まあ、面白い箱でしたよ。ノンポリシーがポリシーでしたね。

東日本大震災でシーンは変わった

――まあ、あの箱で店長やっていれば大変なことありましたよね?事件とか

あったね~どれもいい思い出になっているよ。大変だったのは……そうだな、やっぱり東日本大震災かな。あの震災からいろんなシーンが変わった気がする。イベントはどんどんキャンセルになるし、ちょうど「CDが売れない」と言われ始めた頃かな。あのあたりからライブハウスっていろんな意味で大変になっていったんですよ。

――確かに渋谷と下北から「屋根裏」がなくなったり、インディーズシーンもいろいろありましたよね

やりくり、大変だったと思いますよ。ノルマ制は昔から比べると崩壊しているし、2006年のブッキング帳とかみていると、ノルマ3万くらいだったんです。それが2017年になるとノルマ3万もとっているバンドなんて1バンドもないですね。ということはなかなか大変になってきているとは思う。

JAMだけの話をすると仕事をしながらバンドをする人が増えたと思う。昔はバンドのメンバー5人いたら5人ともフリーターで、音楽で飯を食うために頑張るというバンドがものすごくいた。今そういうバンドはいない、というわけではないけど、数は極端に減ったと思う。音楽で飯を食いたいと発言をする人が減った人が増えましたね。

――言い方悪いですけど趣味になってしまっているということでしょうか

うーん、なってしまっているというと難しいですが、メンバーにはそれぞれ人生があるんだけど、昔はバンドで食べていく、という一致団結がありましたけど今はだいぶ減りましたね。減ったのは震災後だと思います。

ただ、その中で今、音楽をやっている人の実力はすごいですよね。前はバンドやったら面白いちゃうか? みたいな感じでやっているバンドが多かったけれど、バンドがモテるから、とかクラスの人気者になれるから、という人が少なくなってきた。逆に音楽に対する真剣さは増してますね。

新宿JAMのバンドマンたち

アホなバンドが多かった。かわいいアホたちの集団だった。

――みんなJAMが好きだったんですよね

JAMでライブやると友達ができる、と言われるのが嬉しい。JAMで沢山友達ができて嬉しいといわれるのは本当に喜ばしいことです。

――そうですね、それが新宿JAMの魅力ですよね。

やっぱりこう、僕の時代から、かしこまったライブハウスではなかったので、僕がJAMにきたときはJAMが2006年に潰れそう、という話があったとき。僕が入るときに当時のブッキングが辞めて、ブッキングする人がいないと店が回らなくなりますよね。JAMの店長の前はバンドマンをやっていて、バンドが解散してプラプラしていたんです。そんなときにもしかしたらなくなるかもしれないけど、まあ、敗戦処理じゃないけど、最後終わるまでやってくれないか、と誘われたんです。そうなると、もうなんでも来いになるじゃないですか。

――たしかに笑。逆になんでもできるとなりますよね。

だって、スケジュール空白だらけなんですもん。逆に面白くなってくるというか、見事に空白だったので「これはなんでもいこか」みたいな感じではじまりました。それが良かったと思っていますね。いい時代でした。逆に良かったと思います。僕が来る前はJAMのしきたりとか制度とかあったと思うんですけど、僕が来た時は崩壊しているところがあって、まあ、なんでも来いじゃなくて、何でも来てください、助けてくれ、って。手帳を「あ」から「わ」まで片っ端から電話して助けてくれへんか、と。そのころツイッターとかFacebookもなかったから、メールでライブ誘うなんて邪道だという風潮があったんですよ。例えばライブハウスまで観に行って誘うとかあったんです。それをメールをコピペして送るとか邪道だったんです。そのとき片っ端から電話して、みんな根負けして出演してくれたんですよ。2006年は怒涛の日々でしたね。2年間くらいは。だから、むしろうちはなんでもこいですよ、なんて上から目線ではなくて、みなさん、お願いです、来てください。僕を助けてください、みたいな笑。

――なるほど~それが今のJAMのポリシーがないことがポリシーになったということなんですね

そうですね、なんかやってたら楽しくなってきたんですよね。むしろ同じジャンルでがっちりやるのは人の企画でいいかな、なんて思いましたね。JAMを使ってくれる企画者の人。

月から木まで自分で組むんだけど、もうなんでもこい、なんでもきてみろ、でしたわ。逆に変なのが来るとおもろいんですよ。なにこれ?さむーみたいな、それが面白かったり。一番普通が残念。さむ~ってのが今日あたりやったな、とか思いましたわ。もちろん修正しつつやってきましたね。

(後編へつづく)

 

●文/インタビュー 東京饗宴 編集長・ライター    ロックス
映画を中心に執筆活動中。得意なジャンルはB級〜Z級映画。勝手にその年の受賞作品を決める「輝け!日本ぬかデミー賞」を主宰。バンド活動、ウェブメディアの運営やイベント製作・萬屋経営など、マルチに活動中。