植木君は小学校5年生の時の同級生だ。「友達」ではなかった。話したことはない。
僕だけではない。他の人も、植木君と話さなかった。いわゆる「のけ者」だ。
パッとしない身なりをしていた。髪はぼさぼさで、動作がのろかった。
少し、匂った(ような気がする)。植木君は誰からも相手にされなかった。
僕は、4年生の時に転校してきたあと、生意気だったためにしばらく「いじめられっ子」だったが、相手にしてくれる人もいたので、だんだん友達も増えた。結果(?)、5年生で学級委員になった。
言っておくが、立候補なんてしてないぞ。そんなの「生意気」の最たるものだ。学級委員は、推薦されて、いやいやなるものだ。
テレビの学園モノでは、内申書のために学級委員に立候補する生徒が出てくるが、あんなのありっこないと思っていた。
だが僕はその後、東京に来て初めてそういう女子を本当に見て、ぶったまげた。それほど、世の中を知らなかった。
それはいいとして、学級委員にはなったが、同じクラスになった植木君を、僕も相手にしようとしなかった。
そんなある日、クラスで遠足のときの班決めをすることになった。
議長が言う。
「班をどうやって決めたらいいと思いますか。」
口々に「好きな人どうしがいい」という声が挙がった。
そこで僕は、はたと思った。
(好きな人どうしだと、植木君が班に入れなくなる)
学級委員たるもの、のけ者が出るのを見過ごすわけにはいかない。
「くじ引きがいいと思います。」
みんなざわついた。
「どうしてくじ引きがいいんですか」
「好きな人どうしだと、どこの班にも入れない人がいるかも知れないからです」
そのあと「好きな人どうしだ」「でもそれだと」と何度か押し問答があったように思う。植木君のためにここはがんばらねばならない。好きな人どうしにしてはいけない。僕は完全に「正義の味方」気取りだった。
突然、泣き声がした。
植木君だった。
翌日から、植木君は学校に来なかった。
数日後、僕は職員室に呼ばれた。担任が言った。
「植木は、転校した」
これが、僕の罪だ。
こういうのが、僕の中にいるのだ。
おぞましい。
おぞましいぞ、オッちゃん。
●文/オッちゃん
クリスチャン家庭に生まれ、高校時代に洗礼を受ける。50にして天命を知る。某プロテスタント教会所属の現役クリスチャン。趣味は読書、映画、80s、モノ書き。愛読書はもちろん聖書。編集長とは不思議な赤い糸で結ばれている