2018.04.2

『オッちゃん世にはばかる』⑬:「キャンプ」

テントじゃないのか。それで「キャンプ」?

後に周りからそうツッコまれるまで、僕はそもそもキャンプの何たるかを知らなかったのだが。

ちゃんと食堂や風呂や遊び場もある宿泊施設で、夏休みや春休みに「子供キャンプ」と称するお泊りがあった。小学生は3泊4日だったな。

これはですね、自分が行っている教会だけじゃなくて、いろんな教会から子供が来るの。100人くらい。もちろん教会の人に引率されて。

6年生のときに初めて行ったのね。

実は5年生のときも勧められたんだけど、僕はほんと、内弁慶で、知らない人たちの中に行けなくて、直前にお腹痛くなってキャンセルしたの(ホントに痛くなるんだよぅ)。

だけど6年生のときは、弟も行くって言うし、同じ教会から女の子たちも行くし、さすがに嫌と言えずに仕方なく行った。

「キャンプ」では何をするのか。

洗脳だ、洗脳!!

・・と思うのは、宗教+お泊り=カルト、という刷り込みが入っているぞ、キミ。

カルトかどうかの簡単な僕的見分け方を教えよう。(「見分け方」は簡単だが、見分けるのは難しくなっているかも)

考える自由がある。
信じる自由がある。
やめる自由がある。

これが正常な信仰だ。

考える自由がない=詰め込み
信じる自由がない=盲信
やめる自由がない=脅し

これがカルトだ。

カルトが昂じて犯罪的な行動で周りに被害を及ぼすようになると、破壊的カルトだ。典型がオウムね。

で、僕が行ったのは普通のキリスト教会の「キャンプ」なんで、聖書を学ぶ時間は当然あるが、川下りやアーチェリー、工作など、レジャー要素も満載で、行ってみたらすごく楽しかった。

最後の晩は丸太の椅子に座ってキャンプファイヤー。これが辛うじて「キャンプ」と呼べる根拠だったかも。

これは結果的に、僕の信仰形成に大きく影響した。

小学生の時点で洗礼を受けている子はほとんどいなかったが、何つーか、同じものを信じようとしている連帯感はひしひしと感じた。しかも、それは身内でひっそり固まろうとしている内向きな集まりではなくて、外向きに堂々と開かれていた。

僕はこのときから、自分の信仰というものを、恥ずかしいと思わなくなったのね。

それまでは、教会に行っているなんて自分から積極的に言うことはなかった。隠していたわけではないけど、言わなくていいなら言わない、というスタンスだったから。

それは、幼稚園だか小学校だかで、周りの人が食前にお祈りをしないのに気づいたときにスーッと引っ込めた、無邪気な、純朴な信仰心を取り戻したような、ああ、ここが帰る場所だったんだ、みたいな解放感があったのね。

信仰って、本質的には一人ひとりのものなんだけど、やっぱり仲間っていうのは、存在として大きいよ。

だって、僕が信仰を恥ずかしいって思うなら、それは彼ら仲間を恥ずかしいって思うことと同じだから。
あいつらイカしてたし、いいヤツらだったし、そんな彼らを見てて、信仰が恥ずかしいなんて全然思わなくなったんだよね。

仲間って、いいよな。

じゃあまた。
オッちゃんでした!

●文/オッちゃん
クリスチャン家庭に生まれ、高校時代に洗礼を受ける。50にして天命を知る。某プロテスタント教会所属の現役クリスチャン。趣味は読書、映画、80s、モノ書き。愛読書はもちろん聖書。編集長とは不思議な赤い糸で結ばれている。